『おすそわけ』

本波 隆(ほんなみ たかし)が、1993(平成5)年〜2011(平成23)年まで、情報誌に書いたコラムを、ご紹介します。。。。




No.159 「洗面器」   2002(平成14)年12月1日『宇奈月町社会福祉協議会だより』掲載
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 子どもの頃、雪が降った日の朝、顔を洗うのが苦手でした。水を張った洗面器に手を入れると、指先が、真っ赤になるくらいの冷たさ。
 指先だけをぬらして顔をなで、洗った振りをしたものです。
 それを、見かねたからでしょう、鉄びんで沸かしたお湯を、洗面器に入れてもらったことがありました。
 手を入れたまま、じーっとしていると、温かさが指先から、体の芯までじわじわと。
 まさか、蛇口からお湯が出てくる時代が来るとは、思ってもいませんでした。
 でも、蛇口から出てくるお湯より、鉄びんで沸かしたお湯の方が、なんだか温かかったような気がします。
 あれは、きっと真心が入っていたからなのでしょう。真心と、優しさがあれば大丈夫、そう、ボランティア。


No.158 「でんぶ」   2002(平成14)年12月1日『宇奈月町社会福祉協議会だより』掲載
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 魚の身をほぐして、味付けをしたのがでんぶ。特に、ピンク色のものは、甘くて子どもたちに大人気でした。
 あのでんぶが食卓に出ていると、必ずご飯のお代わりをしたものです。
 あの頃は、なんでも甘ければおいしいと思っていた時代。甘い物に、それだけ飢えていたのかも知れません。
 本当においしいのは、手間暇かけて作られたもののようです。
 真心がこもっていれば、きっと伝わります。ボランティア、どんな味付けをするかは、自分次第。


No.157 「ばんば」   2002(平成14)年12月1日『宇奈月町社会福祉協議会だより』掲載
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 以前に比べて、降る雪の量が、随分少なくなってしまいました。その昔、雪の中に埋もれるようにして生活をしていた時も、あったのですが。
 冬になると、屋根雪下ろしをするのが、当たり前でした。その時、使っていた道具の一つに、ばんば。
 ばんばとは、一本の木から作った、大きなしゃもじのようなもの。あれで、屋根の縁の雪などを、落としていました。でも、大きくて重くて、使うのが大変。
 大雪が降ったときは、汗びっしょりになりながら、家中総出で、雪下ろしなどをやったものです。
 あれは、家族や地域が、一体となって支え合っていた良き時代。もう一度、あつい汗をかいて、みましょうか。そう、ボランティアで。


No.156 「バナナ」   2002(平成14)年12月1日『宇奈月町社会福祉協議会だより』掲載
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 もう何十年前になるでしょうか。たまに食べるバナナの、なんとおいしかったこと。お腹いっぱいになるまで、バナナを食べるのが、夢のまた夢でした。
 あの頃は、ちょっと太めの、台湾バナナが主流。
 都会から戻ってきた家族が、房になったバナナを持ってきた時は、驚きました。バナナは、一本ずつバラで売られているものだと、思い込んでいたのですから。
 あれほど食べたかったバナナですが、今は、それほどでも。庶民的なものになった途端、あまり、口にしたいと思わなくなったようです。
 人って、手に入らない時の方が、ありがたさを感じるようですね。考えてみると、なんだか、勝手なもの。



No.155 「ティッシュ」   2002(平成14)年9月1日『宇奈月町社会福祉協議会だより』掲載
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 ティッシュペーパーを使うようになって、もうどのくらい経つのでしょう。
 ちょっと汚れたり、ぬれた時には、すぐティッシュへ手が伸びてしまいます。あれは、便利で、ありがたいもの。
 ティッシュの前は、ちり紙でした。束になったちり紙。質は、決していいものではなかったような気がします。色は黒っぽいし、肌触りもボソボソ。
 ちり紙の前は、新聞紙。はさみで、適当な大きさに切りそろえ、使っていたものです。
 あの頃、使える物は、何度も再利用していました。今の言葉でいうと、資源の有効活用。
 自分の時間だって、有効に使いたいもの。そう、ボランティア。やれば、きっと充実した時間がたっぷりと。



No.154 「いも穴」   2002(平成14)年9月1日『宇奈月町社会福祉協議会だより』掲載
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 家を建て替えてから、里芋やサツマイモを貯蔵するための穴蔵が、なくなってしまいました。
 いも穴と呼んでいた、穴蔵です。いつも暗くて、深い穴。
 あれは、収穫した里芋やサツマイモなどを、長期間保存するためのものでした。
 あのような穴に入れて保存すれば、長い間でも、くさらないものだと気がついたのは、いったい、どこの誰なのでしょう。
 先人の知恵って、奥深いものがあります。長い歴史の中で、いろいろ積み重ねられてきたことって、あなどれないものですね。
 さて、自分の歴史に、書き加えてみましょうか、ボランティア。どんな物語になるかは、やる人の腕次第。



No.153 「名刺」   2002(平成14)年9月1日『宇奈月町社会福祉協議会だより』掲載
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 初めて、自分の名刺を手にしたとき、なんだか社会人として認められたような気分になったのを、覚えています。
 でも、名刺を交換する機会がないため、友人などへ配ったような記憶も。
 昔、名刺は白色で、縦書きがほとんどでした。
 今は、横書きや写真入りの名刺など、様々。
 名刺の出し方にもきまりがあると知ったのは、随分後のことでした。
 名刺は、ただ相手に渡せばいいと思っていたのですから、世間知らずとは困ったもの。
 名刺に肩書きがなくても、名前だけで通用する人になれればいいのですが、それは、いったい、いつになることやら。



No.152 「わらにょう」   2002(平成14)年9月1日『宇奈月町社会福祉協議会だより』掲載
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 刈り取った稲は、わらで束ねてトントンと。稲刈りが始まる前、田んぼには、はさ木があちこちに立っていました。
 稲束を、下から上に投げる人と、それを、はしごに登って受け取る人。二人の息が合わないと、顔にぶつかることもありましたっけ。
 脱穀機は、足踏み式から、発電機式へ。コンバインが出てくるのは、もっともっと後のことです。
 脱穀が済むと、わらにょう作り、うまく積まないと、斜めになって、やり直すことも。あのわらは、むしろやかき縄など、いろいろなものに使ったものです。
 昔は、わら一本でも、大切に使っていた覚えが。あれっ。最近、自然の恵みへの感謝の気持ち、少し忘れていたかも。



No.151 「テレビ」   2002(平成14)年6月1日『宇奈月町社会福祉協議会だより』掲載
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 最初に、テレビを見た時のことは、今でも忘れません。何せ、箱の中の人が動き、声まで聞こえてきたのですから。
 まるで、映画館が、我が家までやって来たよな気がしたものです。
 我が家へテレビが来る前、夕食の後、近所の家へテレビを見せてもらいに行ってました。
 出してもらったお菓子を食べながら、食い入るようにブラウン管を。
 番組表は知らなくても、何曜日の何時から、どんな番組があるか、しっかり覚えていました。
 あの頃は、もちろん白黒で、カラーになったのは、随分後のことです。
 家族揃って見ていたテレビも、今は、一人に一台持ってる家もあるとか。
 一人でやるより、気の合った仲間とやれば、もっともっと楽しくなるかも。そう、ボランティア。



No.150 「ひだら」   2002(平成14)年6月1日『宇奈月町社会福祉協議会だより』掲載
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 アルマイトの弁当箱に、ご飯がぎゅうぎゅう。白いご飯の真ん中には、真っ赤な梅干し。おかずは、塩からい、ひだら。
 そんな弁当を持っていったのは、いつ頃までだったのでしょう。
 あの頃の弁当は、おかずよりご飯。お腹がいっぱいになりさえすればいい、質より量の時代だったような気がします。
 今は、スーパーやコンビニで、手軽に弁当が手に入ります。いろいろなおかずがたくさん入り、彩りも鮮やか。
 でも、昔の弁当、それはおいしく感じたものです。
 ボランティア、やれば、お腹以上に、心が満たされてくるかも。



No.149 「荷馬車」   2002(平成14)年6月1日『宇奈月町社会福祉協議会だより』掲載
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 道路が、まだ砂利道だった頃のこと。自動車が通ることなど、めったにありませんでした。
 たまにくる、砂煙りを上げて通り過ぎる車を、口を開け珍しそうに見ていたものです。
 あの頃、家の前で遊んでいると、馬の足音が、遠くの方からこちらへ向かって、パカパカと。
 太い杉の丸太を、たくさん積んだ荷馬車です。
 兄弟や友だちと一緒に、荷車の後ろから、見つからないよう、乗ったり降りたり。あれは、スリル満点だったものです。
 馬を操っている人は、気がついても知らんぷり。よほど危ないときだけ、大きな声で「こらーっ」。
 要のときは、本気で叱る。それだって、とても大事なことかも。



No.148 「粉末ジュース」   2002(平成14)年6月1日『宇奈月町社会福祉協議会だより』掲載
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 飲み物の自動販売機が出まわる前、ジュースはビンに決まっていました。今、ほとんど使わなくなりましたが、栓抜きは家庭の必需品だったものです。
 子どもの頃、粉末ジュースを、よく飲みました。ジュースの素を水に溶かすと、おいしそうなジュースに変身。中には、炭酸の入っているものもありましたっけ。
 水に溶かさないで、そのままペロペロなめると、甘いのなんの。
 内緒でなめ、舌がジュース色に染まっていたのを知らず、すぐばれたこともありました。
 本物には勝てませんが、それが手に入らない時は、代用品という手だって。
 欲しいからと、すぐお金を出さず、ある物で間に合わせる。最近、そんなことを、忘れていたような。



No.147 「卒業」   2002(平成14)年3月1日『宇奈月町社会福祉協議会だより』掲載
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 卒業証書を、最後に受け取ったのは、何年前になるでしょう。あれから、もう随分経ってしまいました。
 そうそう、卒業式の時、白いハンカチで、目頭を押さえている同級生の姿も。
 一生懸命勉強した人ほど、きっと、卒業式の感動が、大きかったに違いありません。
 でも、あの時、卒業した後に、本当の意味での勉強が始まるなんて、全く、思いもしませんでした。
 卒業できたのは、本人だけの力ではありません。支えてくれた、家族や関係者のおかげ。
 それまでお世話になった人へ、「ありがとう」って、言えればいいですね。
 お世話になった分、何かでお返しすればいいかも。そう、候補の一つに、ボランティア。



No.146 「湯治」   2002(平成14)年3月1日『宇奈月町社会福祉協議会だより』掲載
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 少し離れた温泉へ、湯治に連れていってもらった覚えがあります。行くと、同じ部屋に、何日も何日も滞在。
 温泉といっても、泊まっていたのは、湯治客専用のところでした。
 作る食事は、自分たちで。そのため、鍋や茶碗を持っていきました。その他に、身の回りの物も、たくさん。
 頑張って働いた分、ゆっくり休む。それが、湯治だったのでしょう。
 体の疲れは、休めばとれます。しかし、心の疲れは、なかなか。そうそう、ボランティア、やれば、心の疲れがとれるかも。



No.145 「かまぼこ」   2002(平成14)年3月1日『宇奈月町社会福祉協議会だより』掲載
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 いつ頃までだったのでしょう。赤色と青色のかまぼこは、お祭りなど、特別な時に食べるものだとばかり、思い込んでいました。
 あのかまぼこが、普段の食卓に出てくることなど、まず、なかったのですから。
 あの頃に比べると、今では、毎日、お祭り以上の食事をしているような気がします。
 スーパーなどへ出かけると、それはおいしそうなおかずが、たくさん。それを見ると、つい手にとり、かごの中へ入れてしまいます。
 今は、お金さえ出せば、どんなおかずでも手に入る時代になったようです。
 でも、本当においしいと感じたのは、あの時のかまぼこ。物が豊かでなかった分、きっと、何かが充実していたような。



No.144 「夜行列車」   2002(平成14)年3月1日『宇奈月町社会福祉協議会だより』掲載
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 今から、もう何十年前になるでしょうか。東京へ行くのに、夜行列車を使ったことがあります。もちろん、新幹線なんて、なかった時代。
 堅い椅子に腰掛けて、長い時間座っていると、それは、お尻が痛くなってきたものです。
 列車の中で、することといえば、買った本を読むぐらい。時間は、たっぷりすぎるぐらいありました。
 明け方、窓ガラスごしに見えたのは、重なりあうように建っている家やビル。いよいよ都会に近づいたのだと、緊張したものです。
 到着した上野駅の、それは広くて大きくて、なんと人の多かったこと。
 あの頃は、時間がゆっくり流れていたようです。今の時代、せめて気持ちだけでも、慌てずあせらず、ゆっくりと。






本波 隆(ほんなみ たかし)

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